読むことは書くこと
横浜美術館の美術情報センターを訪れた時、特に美術図書の書架の豊富さに文字通り眼を奪われてしまった。半世紀以上も前の美術雑誌を間近に見ているだけで、当時の人々の息づかいが聞こえてくる。さまざまな時代の評論や解説のテキストに目を通せば、その時々に共有されていた情感を追体験できる。膨大な過去の記録が、今日の読み手のなかで、生まれなおす。許されることならば、ずっとここに籠もって、人類が経験してきたあらゆる情の表現を生きなおしてみたい、と思う。
同時に、わたしは、図書館の静謐な空間でひとびとが読書に耽っている光景にでくわす度に、名状しがたい多幸感に包まれることを思い出した。無音に近い空間のなかから漏れ出てくる、ページを捲ったりメモに鉛筆で書き込んだりする音。そうした微かな音の数々が、ひとびとの意識のなかでふつふつと活動している思考や感覚をありありと喚起させてくれる。老人が地域の民俗誌を紐解いているすぐ隣で、子どもが科学読本に目を輝かせている。全員がてんでバラバラに好きな本を読んでいるというのに、同じ風景に融け込んでいるような一体感はなんだろう。
同じような感覚を、大学で教えるようになってからも味わうようになった。試験会場の監督を務める時、または講義の最後の一〇分で、学生たちが一斉に答案用紙やコメントシートに言葉を書き込んでいく。教室内にカリカリとペンが紙にこすれる音が鳴り出し、若者たちの全身から多様な言葉が絞り出される過程に立ち会う時、わたしは図書館でひとびとが本に没頭している様子を目撃するのと同じような感情を覚える。
ひとびとが本を読み、文章を書く風景にこれほどまでに心を動かされるのはどうしてだろうか。そんなことを考えていたある日、インターネットと出版に関する論考の連載タイトルをあれこれと考えていたときに、「読むことは書くこと」というフレーズがふと浮かんだのだった。この表現の意味は、認知のミクロなレベルと、社会というマクロな次元の両方にかかっている。
ミクロレベル:無意識の微創造
一般的には「読むこと」と「書くこと」は別々の行為だと認識されていないだろうか。インプットを増やす、とか、アウトプットの質を高める、など、まるで人間が計算機的な入出力のインタフェースを持っているかのようなメタファーを見聞きすることが多い。しかし、このアナロジーは端的に間違っている。そればかりか、人間の生物学的な特性を後退させてしまいかねない。なぜかといえば、わたしたちはある表現に触れると同時に意味を生成していると考えるからだ。そして、それは他者の表現に限ったことではなく、自分自身の行為においても同じなのだ。
ドナルド・ショーン(哲学)は、「行為後の反省」(reflection-ON-action)と「行為中の反省」(refection-IN-action)とを区別した★1。たとえば、画家がスケッチを描いている時に、対象物の輪郭を描き終えてはじめて反省行為が生じているのではなく、一ストロークごと、もしくはもっと短い線の描き出しの行為中においてすでに「絵を描く」という行為へフィードバックが働いている。この無意識に近い粒度で「反省」という行為を捉えなければ、意識という解像度の粗い認知のレベルでしか創造の過程を追跡できないのだ。
「行為中の反省」にも関連する動向として、フランシスコ・ヴァレラ(認知科学)は人間の時間認知の研究を通して、〇・一秒、一秒、一〇秒の三つの時間尺度を分析し、区別している★2。〇・一秒の次元では基本的な神経系の知覚が生じる。一秒のスケールでは、知覚がより抽象的な認知に統合される準備がなされ、一〇秒の尺で状況の記述的な評価が意識に上る。
わたしたちはだから、行為とその反省を別々の時間に独立して行っているわけではなく、行為そのものが共時的に反省を促し、次の行為を準備させている。この状況は「書くことは読むことである」という風に言い表すこともできるだろう。たとえば、この文章をタイピングして書いている今現在、わたしは書き出した言葉を見ながら、〇・一秒から一秒の間で行為中の反省を行っているが、それを意識で捉えることはほぼできない。その情動の感覚は一秒から一〇秒の時間スケールに渡され、文章を読み返して書き換えるという行為後の反省に影響を与えている。
これと同時に、「読むことは書くこと」でもあると考えられるのは、わたしたちが知覚体験を言葉に置き換えるより前から、意味の生成ははじまっているからだ。ジェームズ・ギブソン(生態心理)は、生物は身体に備わった受容器官を通して常に能動的に情報を探索していると考えた。
ギブソンが能動触(アクティブ・タッチ)と呼ぶ知覚のモデルでは、次のように考える★3。視覚情報を中枢神経系である脳が処理して言語的な知覚に変えるより以前に、網膜で自然の反射光を結像させる時点において、無意識下での情報処理と反応が引き起こされている。そうやって身体が環境内を探索して発見する、価値ある情報をギブソンは「アフォーダンス」と呼んだ。ヴァレラの分類と対応させれば、一〇秒の時間枠のなかで意識が解釈をほどこすより前の〇・一秒のスケールで、無意識は常に環境と相互作用している。意識的な学習の水面下で、わたしたちの身体は絶えず「行為中の反省」を行っているのだ。
スポーツ選手が反復練習を繰り返すのは、意識を要さない身体動作を身につけるために、無意識を学習させているのだと言える。そして、たとえ眠っている時でさえも、わたしたちの身体は探索を止めない。だからわたしたちは、放っておいても、身体が動作を止める死の瞬間まで学習と適応を続けている。
この能動触のモデルを前提にした時、わたしたちはどのように情報を摂取していると捉えられるのだろうか。たとえば本を読んでいる時を考えてみよう。文章を読む時、文字の連なりがまずは視覚情報として目に入ってくる。読み取りを終えてから意識は意味の解釈を行っているが(行為後の反省)、読み取りと同時に無意識下での微小なフィードバックが引き起こされている(行為中の反省)と考えられる。本を読む時の「行為後の反省」とは、まとまった文章の単位を読み終えた後に、どのような解釈が起こったのかということにかかっている。当然、同じ文章でも、読み手によって受け取られ方は大きく異なる。この差は、文章で表現されている内容に関連する経験や学習の量が個人毎で異なることに起因している。
それでは「行為中の反省」では何が起こっているのだろうか。文章は視覚で受容されるが、読み取ると同時に内声が起こる(内声せずに読む人もいるという)。内なる読み上げによって文章の音としての響きやテンポ、リズムといった情報が発生し、ただちに知覚系にフィードバックされる。また、日本語の場合は漢字とひらがなのバランス(漢字が多い文章は読みづらい、など)であったり、文字そのものの形象から生まれる心理的な効果(グラフィカルな印象や共感覚など)も、読み取られ方に左右する。だから、同じ文章を与えられた二人の人間がいたとして、片方には難なく読めたとしても、もう一人ではなかなか文意が頭に入らないというような個体差が発生する。
情報を受け取ってからその意味が認識されることを記号接地(シンボル・グラウンディング)と呼ぶ。Aという情報を受け取って、わたしはαという意味を生成するかもしれないし、あなたはβという別の意味を接地させるかもしれない。どれだけ明確な表現であったとしても、その記号が接地する「床」が異なれば、そこから生成される意味は微かに異なる。
グレゴリー・ベイトソン(サイバネティクス)は、「情報とは差異を生み出す差異である」と定義した★4。情報と、それを受け取る主体との関係性によって、新たに生まれる情報が異なるということだ。別の言い方をすれば、わたしたちは何かを知覚する時に、それぞれに固有の方法で新たな情報を生み出さざるを得ない。そのような身体を持ってしまっているのだ。
「読むことは書くこと」という表現はつまり、人間の情報の摂取と表現が複層的な時間軸のなかで円環的な関係を結んでいることを意味している。そしてこの概念自体、ギブソン、ショーン、そしてヴァレラやベイトソンといった数多くの研究者たちの思考を読みながら書いたものである。数年ものあいだ、自分の身体のなかで複雑に絡み合って渾然一体となった末に、ふわっと上澄みのように浮かび上がってきたものだ。彼らの本を読み込み、意識のなかに長い間たゆたわせながら、原稿やメモを書き込み続けたなかで、ある時ひとつのまとまりとして結晶化し、それはいまも様々な思考の摂取と表現の循環を通して、かたちづくられている過程にある。
ここまで見てきたように、知覚と認知の研究によって、無意識が微かな創造を常時行っていることがわかってきた。それは、原理的に、無意識下の活動の全てを制御することはできないことを意味している。しかし、その制御できない「内なる他者」のように振る舞う無意識のプロセスを信頼し、任せることはできる。
冒頭で述べたように、わたしが図書館や教室で静かな興奮を覚えるのは、その場にいる人々の内側で作動しているこうした複雑な働きに思いを馳せられるからだ。各人の合理的な目的に沿った読書や執筆という次元ではなく、情報を読み込む行為を通して起こっている無意識レベルの学習の膨大さに圧倒されるのだ。だから、わたしたちはもっと〇・一秒スケールで無意識を涵養するということに意識的になってもいいと思う。
マクロレベル:インターネットによる文化の可視化
人間個体のレベルで起こっている「読むこと」と「書くこと」の循環は、社会のレベルではどのように観測できるのだろうか。わたしは大学を卒業してからすぐに、インターネット上で情報の発信者が著作権を自ら不特定多数の他者に対して開放する、「クリエイティブ・コモンズ」という仕組みの普及活動に関わりはじめた。互いの創作物を自由に活用して新しい作品をつくりだす、いわゆるオープンソースという文化はインターネット上で花開いた。それは権利を保護して収益を最大化することを第一に考える企業の論理とは異なり、誰にでも情報は開かれているべきであるという社会的な理念に基づいて始まった。
今日、世界中で著作権の保護期間は延長され続けており、インターネット上での違法ダウンロード規制の力は強まるばかりである。結果的に、著作権が失効するまでに一〇〇年以上の時間がかかってしまう。しかし、一八世紀初頭のイギリスで世界初の著作権法であるアン法が制定された時には、著作権の保護期間はわずか七年だった。その背景には、私人が権利を独占して対価を得られるという経済的なインセンティブと同じくらい、創造された作品が社会に還元される価値が重視されていたことが分かる。
ここでは、「読むこと」と「書くこと」が文化を円環的に支え合うプロセスとして見なされている。つまり、どんな新しい発想や表現も、それが生まれる以前の社会の歴史的な蓄積に負っているという考えが見て取れるのだ。文化は意識と無意識を問わずに、個々人のなかに継承されていく。そうやって摂取された情報の総体が、各人によって編集され、異なるかたちにまとめあげられていく。一七世紀の啓蒙思想にも端を発するであろうこの社会観では、万人がただ情報を受け取るにとどまらず、新しい情報をかたちづくる潜在的な作者であると見なしている。
しかし、アン法が制定されてからの三〇〇年間を通して、著作権の保護期間は肥大化し続けてきた。それはいわば、企業の経済合理性という短期思考型ロジックが、公共的な文化育成の長期的な思考を凌駕し続けた過程でもある。実際にアメリカでは多くの大企業が政治ロビイングを通して議会に保護期間延長を促し、「ミッキーマウス保護法」などと揶揄されるような法改正が行われてきた。そして環太平洋連携協定(TPP)の交渉では、アメリカの著作権ルールが日本国にも課されるよう圧力がかかり、日本の保護期間も延長されたことは記憶に新しい。著作権の議論において、文化的力学の観点は希薄化する一方である。社会を一つの身体と見立ててみれば、いわば身体の認知における〇・一秒から一〇秒のスケールで、〇・一秒のスケールのみにリソースが集中してしまっている状態だと言えるだろう。
それでも二〇世紀末にワールドワイドウェブ(www)が発明されて、インターネットが一般世帯に普及し始めた時、多くの技術者や研究者は世界中の誰もが自由に良質な情報にアクセスできる未来を夢見た。それは長期的思考を育む世界的ネットワークのビジョンだ。その一部はすでに実現したか、いまも具現化の過程にある。
情報技術の世界では、ソフトウェアのソースコードをオープンにすることで、より頑健で機能性の高いプログラムが開発できるということは常識になった。文化の世界では、たとえばオープンソース百科事典「ウィキペディア」では、全ての記事にクリエイティブ・コモンズのライセンスが付いて公開されており、誰でも自由に利活用したり編集できるようになっている。また、ヨーロッパ連合(EU)のイニシアティブであるデジタル・アーカイブ「ヨーロピアーナ」は、ヨーロッパ中で展開する三〇〇〇以上の美術館と連携して、各館が所蔵する芸術作品の画像やメタデータをパブリックドメインやクリエイティブ・コモンズで公開している。
この他にも世界中の教育機関や文化施設、そして官公庁も積極的に自分たちの抱えるデータをオープンに公開することで、芸術や政策に対する社会的な関心を高めようとしている。
未来の文化
ここまで、身体のレベルではよりミクロな無意識のレベルに注視し、社会のレベルではより長期的な時間軸を生きることを考えてきた。矛盾するような帰結に見えるが、そうではない。
個体としてのわたしたちは言語的な整理を行う意識の次元だけではなく、身体の内部で渦巻く無意識によっても条件づけられている存在である。だからこそ、「何を」知るかだけではなく、「どのように」知るかが、わたしたちに及ぼしている影響について知る必要がある。
同時に、集団的な身体としての社会のレベルでは、わたしたちは驚くほど臆病に振る舞っている。リスクヘッジのためにあらゆる確率を計算しようとして、既定の正解に向けて実存を最適化しようと急いでしまっている。
だから、双方の適切な噛み合わせを見極めるために、バランスを是正しなくてはならないと思うのだ。
最後に、わたしが夢想する未来の文化のイメージを素描してみたい。それは第一には、良質な図書館が内包する、あの心地よい情景の延長にあってほしいと思う。それぞれが別々のことを静かに学びながら、ただ自由に学ぶ時間を共有しているような空間。短期的な成果を要求する競争原理ではなく、固有の無意識の好奇心をのびのびと働かせる喜びで充溢された場所。そこでは互いの不可視の微創造のプロセスが喚起されながら、拙速な答えに飛びつかなくても良いという安心感が醸成されている。この学びの共在感覚を、物理的な空間の枠を超えて、日常の基底部分に埋め込むためにこそ、情報技術を駆使できるだろう。
文芸作品と向き合う時間は、無意識に滋養を与え、自由に放牧させる意味を持っているのではないだろうか。成績を伸ばすため、試験に合格するため、他者と競争するため、といった目的は全て、意識の次元に関わる問題である。そうではなく、わたしたちの体内の奥底で蠢く微創造のプロセスたちが、多様な表現と接触しながら未知の価値を代謝する風景を想起する。そうやって、全てを制御することの不可能性を共有し、他者の立場を生きていたかもしれない自分の可能性を想定してみることこそが、文学と呼ばれてきた表現の本来的な力であると思う。
だから、個々人の身体の集合としての社会的身体をもっと気持ちよく動かせるようになるためにも、わたしたちが他者から読み込むことが、自らが書き出すこととゆるやかに連続しているリアリティに対して、もっと高い解像度を持てるようになれれば、と切に願うのだ。その道筋は、個を孤立させてしまう確率論的な実在観ではなく、情動をかき乱し、不確定性の渦のなかから協働的な主体性を浮かび上がらせる芸術という営為によって示される。以上の思考をイメージさせてくれた横浜美術館の美術情報センターが、未来においてそのような場となるにはどのような道筋が考えられるだろうか。美術に特化した図書館機能を持っていることは大きな特徴だから、その点を活かして創作活動を営む人々に向けた取り組みを新たに構想してもいい。本稿で考えてきた「読むことは書くこと」というコンセプトに沿えば、それは情報が摂取されることだけではなく、来館者の微かな創造のプロセスを浮き彫りにし、助ける機能が必要になる。たとえば、図書館で学ぶ人が書物から抜き書きをしてメモを取るように、美術図書の図版を書き写すアトリエ機能を設ければ、図書室のなかで表現が生まれつつある状況が可視化されるだろう。そのようなプロセスをアーカイブする情報システムも考えられる。来館者各自の自学ノートを書き込めるサービスを組み入れて、そのアーカイブを共有できるようにすれば、それぞれの学習を助けつつも、来館者全員がひとつの学びの共同体に属しているという意識が芽生えるだろう。なにより大人が学び続けている光景を日常的に目にすることができれば、子どもたちは長期的な学習観を滋養するに違いない。いずれにせよ、物理的な身体の空間に根ざしたコミュニティを醸成し、その補助線として情報技術を用いることで、わたしたちそれぞれの「読むこと」と「書くこと」がつながる場が創出されることを期待したい。◉
註
★1――Schön, Donald. Reflective Practitioner: How Professionals Think in Action, Basic Books, 1983
★2――Varela, Fransico J. “The Specious Present: A Neurophenomenology of Time Consciousness,’ in Naturalizing Phenomenology: Issues in Contemporary Phenomenology and Cognitive Science, University Press, Stanford, Chapter 9, pp.266–329, 1999
★3――Gibson, James J. “Observations on Active Touch,” in Psychological Review, 69.6, pp.477–492, 1962
★4――Bateson, Gregory. Steps to an Ecology of Mind, University of Chicago Press, 1972