「クリエイティビティ」の2つの語源
現代日本語では「創造」と訳される“Creativity”という語には2つのラテン語源があると言われている。1つは“creare”(クレアーレ)で、文字通り「作る」、「生じさせる」、そして「父親が子をもうける」という意味もある。もう1つ、より古い起源を持つと思われるのが“crescere”(クレセーレ)だ。こちらは「生起する」、「生まれる」、「増える」、「育つ」、「健康になる」、「膨張する」といった意味を持ち、ローマ神話で農業と豊穣を司る地母神ケレース(Ceres)に起因していると言われる。ケレースは穀物の収穫を象徴しており、春に執り行われるその祝祭“Cerealia”(ケレーアーリア)は、現代の「シリアル」(cereal)の語源にもなっている(図1)。
クレアーレとクレセーレという「クリエイティビティ」の2つの語源に、微妙な、しかし重要な差異があることを見逃してはならない。なぜなら、現代ではほとんどの場合、「クレアーレ」の方の定義が用いられているからだ。ここでは逆に、クレセーレ型のクリエイティビティの本質に注目して、考察していこう。
図1. “Ceres”, by Augustin Pajou (1730–1809) , Metropolitan Museum of Art. URL: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ceres_MET_DT10079.jpg
人工のクレアーレ、自然のクレセーレ
クレアーレの定義の1つに「父が子を持つこと」という男性性が付随していることは、ユダヤ・キリスト教の聖書に見られるように、父なる神がゼロからすべてを作り出した現象を“creation”と呼ぶことを想起させる。
対して、クレセーレの方は、地母神の母なるイメージとも相まって、植物的な生命のイメージに溢れている[1]。単純に言ってしまえば、両者を分かつのは、「作る」と「生まれる」の違いである。クレアーレが「人工的な制作」を表すのとは対照的に、クレセーレは植物的な「自然発生」のイメージを喚起させるのだ。
この差異がどのような歴史的経緯で生じたのかということについては、宗教学者や考古学者の議論が俟たれるだろう。それでも、旧約聖書において、ヤハウェの神が最初に「光あれ」と指示したとされるのに対して、新約聖書では「始めに言葉ありき」とされている。この違いは、創造という概念の捉え方を考えるわたしたちにとって、様々な想像力を掻き立てられる材料となる。
これまでの考古学調査が明らかにしてきたように、ユダヤ教の発展過程においては、それまで多神教であった中東地域の宗教形態が、次第に人工的な偶像破壊を通して、唯一神の信仰へと統合されていった。その理由としては、宗教を政治利用する手法が洗練されていったプロセスが推測できる。異なる文化を持つ諸民族を束ねるために、信仰の対象を単純化することで、社会統治をしやすくしようとしたのではないか。
歴史的事実を知るためにはさらなる議論が必要だが、ユダヤ教からキリスト教が派生する過程において、唯一神という超越的存在が世界に最初にもたらしたものが、自然に降り注ぐ「光」から、社会の秩序を形成する「言葉」へと転換されたのは、非常に興味深い。旧い信仰においては、植物や穀物を実らせるのに必要な太陽光が、より大きな価値を持っていた。しかし、農耕技術を発達させ、自然を制御する術を手に入れた文明は、神をより人間中心主義的なかたちに作り変えた。この過程で、自然主義的なクレセーレ型の生成力から、擬人的なクレアーレ型の創造力への転換が起こった。
表現の摂取と情報の代謝
この認識論の変遷は、近代社会を生きるわたしたちにとって、「創造とは何か」という問いを考える上で大きな示唆を与える。なぜならば、現代の自然科学の発達は、クレセーレ型の生成力へと回帰するからだ。近年の認知心理学から複雑系科学、そして生物学の知見を統合して考えれば、個人を他者と切り分け、自ら何かを創造しようとするクレアーレ型認識の限界に行き当たらざるを得ない。そうではなく、創造を他者との関係性のネットワークの中で自ずと起こる生成として捉えるシステム論的な視座こそが、科学的思考の必然的な帰結だと言える。その意味では、「創造」という言葉にこびり付いたバイアスは、非科学的でさえあると言えるだろう。
ここでは、それぞれの個別の研究領域を詳細に紹介するための紙幅も時間も足らないため、以下に概論を述べるに止める。
まず、ある人が何かを表現したり、外部から情報を摂取したりする方法は、他者の表現と摂取に影響する。わたしたちは他者の表現と摂取の仕方を学ぶことができる。学習するためには、自らの感覚野を他者に向けて開く必要がある。それは文学や芸術を通して、他者の感覚意識体験に触れることで可能となる。
そうやって無数の他者の感覚を自身の内に取り込んでいくことで、自らの感覚、つまり情報の摂取の仕方が変調する。他者の表現のうちに含まれる感覚を自分の感覚へと咀嚼していくうちに、意識の状態が変容していく。この過程は、食物を摂取し、体内で分解して、栄養素を摂取するプロセスになぞらえることができる。つまり、わたしたちは、コンピュータのように情報をどこからかダウンロードして記憶野に保存しているのではない。自らの体内に入ってきてから、情報はどんどん解釈され、翻訳され、別の情報と有機的に混ざり合い、新たな価値や意味の素材になる。わたしたちは情報を「代謝」しているのだ。
生物学における代謝とは、一言でいえば「物質を分解してエネルギーを取り出すこと」である。自然界の動物は、酸素呼吸や発酵、捕食と消化吸収を通して、植物は光合成を使って、エネルギーを物質から取り出している。そして、動物、植物、微生物はすべてATP(アデノシン三リン酸)というエネルギーの「通貨」を使って、活動を行う。重要なのは、ATPの運動エネルギーはゼロから作られているわけではなく、あくまで物質のうちに保存されているエネルギーを別のエネルギーに変換(transform)して使っていることだ。これは物理学では熱力学の第一法則と呼ばれ、生物にも当てはまる。生物は、無から有を作り出すクレアーレ型の原理には従わないのだ。
表現と摂取の複雑系
人による表現においてもまた、ゼロから一が作り出されるわけではない。表現とは、人の内部に渦巻く感覚や、他者の表現から摂取した感覚が相混ざって翻訳(translate)される過程を指す。この時重要なのは、表現と摂取が別々ではなく、並行して、同時に起こっているということだ。
だから、ある個人が表現と摂取を行っている際の情報の流れは複雑系を成す。それは線形の関数で記すことができない。物理学において非線形であるということは、数式によって解析的に予測が立てられず、実際に動いてみないと分からないシステムのことを指す。わたしたちはそれぞれが、この複雑な流れの中の瞬間瞬間で、意味や価値を抽出し、次の表現と摂取につなげている。
人工生命(Artificial Life)という、コンピュータの計算を用いて、生命のパターンをつくろうとする研究領域がある。その中に、セルラー・オートマトンという、一定の数学的ルールに従って格子状の空間にパターンが生成されるシミュレーションがある(図2)。面白いことに、ルールを変えていくと、固定的、周期的、カオス、そして複雑という四つのクラス(分類)が現れる。中でも、自然界に現れるパターンに最もよく似ているとされるのが、「複雑」のクラスが生み出すものだ。完全なカオス(ランダム)でもなく、完全に周期的でもない「複雑」のパターンは、「カオスの淵」とも呼ばれている。わたしたちが思考し、情報を摂取し、意味を生み出すパターンもまた、カオスの淵に似ていると考えられる。
それでは複雑な意識のプロセスを構成する要素はなんだろうか。
図2. セルラーオートマトンにおける固定・周期・カオス・複雑の4クラスの分類。複雑系においては一見カオスに見えて、局所的に構造が生起し、相互作用を引き起こしている。(出典:『つくってうごかすALife』、オライリー・ジャパン)
まず、根底を成すのが記憶だろう。さまざまな体験から得られたエピソード記憶や、体が覚えている手続き記憶、そして体験に依存しない意味記憶などが個人のなかで複雑に絡み合って、「記憶」という大きなシステムを形成している。それは局所的に膨らんだり縮んだりしている、表現=摂取にとっての身体である。この中で、「持続する問い」が形成される。それはGoogleアラートのように、特定のキーワードに反応して、通知を飛ばすような役割を果たす。時間軸が縦の深度のベクトルだとすれば、横軸を担うプロセスが、異なる情報同士を結びつけるアナロジーの思考である。アナログ思考は、あらゆる情報を連続的に扱い、類似性や近縁性でつなげる。対してデジタル思考は、現象を離散的に分類し、論理によって演繹(法則に基づいて個別事例を判断する)や帰納(個別事例から法則を仮定する)といった推論を行うものだ。当然、アナログとデジタルの思考も絡まり合うものである。しかし、極言をすれば、コンピューターには、厳密な意味での生物的アナロジーは行えない。情報を統計量に還元し、近似や確率を計算するという意味での類似性はもちろん演算できるが、生物のアナログ思考は論理に頼らない直観によっても駆動されるからだ。
反面、人にもまた、コンピュータのように経時変化をしない記憶の保存と取り出しや、何百万回と同じ作業を反復するといった芸当はできない。大事なのは、人と計算機の記憶方法の差異を認識した上で、人の生命的な認知プロセスのために計算機を使役することだろう。
植物と発酵の陰在性
さて、ここまで複雑系としての記憶=思考と、そこに持続する問い、そして直観によって異なる情報を結ぶアナロジーという特徴を備える人の思考法を見てきた。ここにクレセーレ型の、自然発生的に意味と価値が創出する構造が見て取れる。
人間の脳をコンピュータに喩えるメタファーは20世紀を通して社会に普及したが、その誤謬もまた自然科学者の間では繰り返し指摘されてきた。人工知能は人間の意識の研究から始まり、ニューラルネットワークは神経細胞を模して数式化されているが、コンピュータはいまだに人の認知プロセスを再現するには程遠い。というよりはむしろ、人とは異質な知能を持つシステムとして発達してきたと理解するべきだろう。アルゴリズムは論理的な命令と指示の手続きの集合であり、それは数学という人工言語を構築した人間の重要な一部を成してはいるが、その全てではない。人が意味と価値を生み出す過程には、計算という人工的な「算出」の手続き以外にも、自然発生的な「産出」プロセスも大きな役割を担っている。
ケレースは農業の神でああると同時に、農耕技術が発達する時期よりもっと古い時代からの生殖や豊穣の象徴でもあった。そのため、農耕という人工的な自然の管理と、自然発生的な植物的生成のイメージの両方を司っていると思われる。
それでは、クレセーレ型の意味の産出構造のメタファーとして、果たして「植物」は最適なものだろうか。ジル・ドゥルーズはかつて、人の意識は樹状ではなく、根茎状を成していると言った。植物の本質を理解するには、地表の葉や枝といった顕在的な側面だけではなく、地中に張り巡らされた根茎ネットワークの「陰在性」にも宿っている。ここでわたしは、植物と同じように、陰在的な反応ネットワークである発酵微生物のメタファーを導入したい。
発酵微生物は植物ともまた異なる組成と代謝システムを持っている。農耕と発酵食の文化と歴史はイコールではないが、それでも非常に近接する領域でそれぞれ発達してきた。発酵食品は農業と同様に、古代より世界中で作られてきて、地域ごとの風土において独自の風味を生み出してきた。中でも日本には、特に多種多様な発酵食が民間に根付いていることが広く知られている(図3)。そして、発酵食の多くは、意図的にではなく、偶然発見され、後に再現方法が体系化されたものが多い。つまり、発酵食にはより濃厚に自然発生のイメージが付帯しているのだ。
図3. 発酵デザイナーの小倉ヒラクが47都道府県それぞれの発酵食文化を取材した書籍『日本発酵紀行』(D&DEPARTMENT PROJECT、2019)。
農耕と発酵食に共通し、かつ、発酵食においてより顕著な特徴は、複雑で不可視な反応生成の過程である。多種の微生物が無数に棲息し、代謝活動を行っている発酵システムは、基本的に人の肉眼に対しては陰在である。顕微鏡や化学試料、その他センサーといった機材を使えば、その活動を確かめられる。しかし、リアルタイムに数十兆もの微生物群の全容を把握する技術はいまだに確立されていない。
発酵する場としてのぬか床
わたしはこれまで、人の有機的な情報の算出パターンを、微生物の発酵過程、それも日本の伝統的な発酵食品である「ぬか床」になぞらえて論じてきた[2]。また、先述した人工生命の領域で、ぬか床をロボット化したシステムを開発し(図4)、微生物と人間のインタラクション可能性について研究を行っている[3]。
図4. 筆者が小倉ヒラク、ソン・ヨンア、守屋輝一と共同開発しているぬか床ロボット『NukaBot』(2019年6月ヴァージョン)
ぬか床は数ある発酵食の中でも、その複雑性で知られている。乳酸菌の他に、酵母類、そして多種の好気性代謝菌が棲息することがわかっているが、その本質は多様な微生物のバランスである。ぬか床の発酵と熟成の過程について、過去の先行研究を読み解きながら、独自にぬか床をセンシングしてデータを集め、その分析を通して理解を進めてきた(図5)。この図では、健全な生育を経るぬか床が辿る、三つのフェーズを表している。
ぬか床は最初に塩漬けの状態でスタートする。乳酸菌の数も少なく、発酵は進まないが、それでも塩分の浸透圧によって雑菌の侵入と繁殖が防がれている状態だ。その次に、乳酸菌が増えて、乳酸発酵が進むが、それでも独自の風味が生まれていないピクルスのようなフェーズに進む。そして最後に、さまざまな雑菌と乳酸菌、酵母類の安定的なバランスが保たれるようになってはじめて独特の風味を醸し出すようになる。これをわたしたちは「ぬか床期」と呼んでいる。
図5. ぬか床の発酵醸成過程に守破離をかけあわせたモデル。小倉ヒラク作成の原図を基に再作成。
ぬか床における「守破離」
このモデルに、人間の思考が独自の「風味」を獲得する過程を重ね合わせてみよう。そのために、それぞれのフェーズを、日本の武道や芸能でよく用いられる「守破離」に当てはめてみた。「守」とは塩漬け期に相当するフェーズで、基礎的な知識と経験を蓄積していく期間を指す。「破」は、十分な基礎知識を得て、教えられた型を破り、独自の応用が可能になるフェーズであり、ぬか床におけるピクルス期に当たる。そして「離」は、独自の価値や意味を産出できるまでに発酵が進んだぬか床のような思考状態を指す。
ここで重要なのは、誰にも共通する「型」の状態から、独自の「風味」が醸されるようになる、という流れだ。創造性の議論では、ユニークさやオリジナリティが問われることが多いが、ぬか床のクリエイティビティはまさにクレセーレ的に、自然に醸成する。ただ、それは完全に放置しておくわけではなく、ぬか床の手入れをする人間との微生物叢レベルにおける相互作用も必要となる。この点については後述する。
それではぬか床の「守破離」を実現するための条件とは何だろうか、順を追って見てみよう。まず、「守」を構成するために必要なのは、適切な酸性状態だ。ぬか床においては乳酸菌が一定数まで増えることで、初期状態においては5.5程度のpH値が最終的には4.4ほどまで低下するのが好ましい。低いpHの酸性状態とは、人に益のある乳酸菌は生育できるが、人に害のある雑菌を抑圧するものだ。このことを人間の学習に当てはめて考えれば、学びの初期においては良質な情報源を整え、劣悪な情報を避けることにも似ているだろう。
こうして徐々に乳酸菌を増やしていくことは、学びの質を高めていく過程とも取れる。そして型を破るフェーズにおいては、十分な乳酸菌の量が担保される必要がある。ここでは、乳酸菌だけではなく、酵母類や、少しずつだが雑菌が再び増えてくる。構成要素の多様性が増えることが大事になる。学習においても、ただ学んだ通りのことだけではなく、独自の解釈や、異質な情報との組み合わせによって新たな価値を見出すことが求められる。
この時、先に見たように、知識と経験の記憶から異質な情報を引き出し、結びつけるためのアナロジー思考が必要になる。守から破に至るプロセスで大事なのは、多少のノイズによっては崩壊しないシステムの弾力性が確立されることだ。心理的弾力性のことはレジリエンスと呼ばれ、「折れない心」とも形容されるが、ぬか床の場合においては、腐敗の力を押し返す発酵の勢力を獲得することに相当する。ぬか床だけではなく、発酵食システムの特徴として、常に発酵と腐敗の状態を行き来しえる可能性が挙げられる。腐敗と発酵は、生化学的に言えば等しく微生物の代謝が促進された状態であるが、人にとって有害なものが腐敗と呼ばれ、有益なものが発酵と呼ばれる。たとえ少し腐敗しても、再び発酵しうるポテンシャルを育てるのが守から破までに整えられる条件だと言えるだろう。
人の認知において、学習が腐敗するとはどういうことだろうか。有益な学びと有害な学びを一意に定義するのは難しい。化学的な腐敗とは乳酸菌以外の雑菌が支配的になり、人の身体的健康に寄与する乳酸が代謝されなくなる、微生物の多様性が失われた状態である。であれば、人の学びにおいても、ある学習結果が他の情報との結びつきを遮断され、意味や価値の産出に寄与しなくなった状態を腐敗と呼ぶことができるだろう。他の情報との関係性が新たな価値を生み出すためには、それまでの過去に蓄積した記憶の豊穣さが重要となる。
そして最終的に独自の風味を生み出すぬか床期に移るプロセスには、先述したように「手入れ」が大事となる。ぬか床における手入れとは、文字通り人が手を使って定期的に米ぬかをかき回すことに尽きる。この時、人に皮膚上の常在菌などの微生物叢の一部がぬか床内に移入すると言われている(この点は依然、科学的研究が俟たれていることに留意するべき)。また、男女では皮膚上の微生物叢が微妙に異なり、それぞれがかき回すことで生まれる風味もまた異なってくるとも言われている。同じ原材料を使っても、手入れをする人が異なれば、家庭によって味が異なってくる。それはまさに、ぬか床と向き合う人がどのような行動と移動の歴史を持っているかによって、身に纏う微生物叢が変化することに依存している。
異質なものを取り込むということ
風味の独自性とは、その人の過去の歴史と、新たな情報が結合することによって自然に生まれるものだ。論理的な演算の力とは、「誰がやっても同じ結果になる」という価値に連なるものである。普遍性のある再現と検証を可能にする、科学的探求の前提である。いわば学習の基礎となる部分だが、新たな科学的法則を打ち立てるにも、守破離のプロセスが必要となり、時として常識を疑い、直観によって独創的な仮説を立てることが重要となる。これが科学的なクリエイティビティだが、そこにただの機械的な論理を飛び越えた直観、つまり科学的探求者の独自の歴史からクレセーレ的に生み出される「風味」が果たす役割については、科学教育においてもっと注目されるべきだろう。
人の意識の手入れということを考えてみよう。思考や記憶に手を入れる、かき回す、ということは他者との相互作用と呼び替えられるだろう。自分とは異なる感覚を持つ他者に触れられる、かき回されることは、自らの意識の中に他者の認識論を取り込むことにほかならない。ただ、身に触れる全てを無差別に取り込むわけではなく、独自の記憶の中で醸成される持続する問いのフィルターを通して、自己の構成要素の複数性に寄与するものを選り分ける論理が必要だ。他者との差異を認めつつ、アナロジーによって異なる情報を接続し、独自の関係性をつなげること。この閉鎖性と開放性をあわせもち、自身の歴史と整合させる運動のなかにこそ、「独自の風味」が生まれる。この時こそ、クレセーレ型の産出構造が実現している状態だと言えよう。
もう少し具体的に「手入れ」の働きを考えてみよう。ぬか床における手入れとは、弱嫌気性代謝菌、つまり空気に触れずに糖質を乳酸に代謝する乳酸桿菌類と、好気性代謝菌である酵母類やグラム陰性菌などの雑菌の容器内の位置を取り替えることを目的にしている。放っておけば、空気に触れる表面上で好気性代謝が異常繁殖してしまうため、定期的に容器の底のほうに押しやる。同時に、容器内の乳酸菌類の分布の偏りをなくし、ぬか床の全体で乳酸菌が活動できるようにする。同じ図式を、自己というシステムをメタ化して観察できる人に当てはめてみれば、意識と無意識の複雑系に異質な情報を取り込み、新旧の記憶を撹拌することによって、自ずから新たな意味が代謝されるのを待つという態度になる。その具体的な方法は多種多様だろう。未知の知識体系を調べながら自ら撹拌を行うこともできれば、異質な他者との積極的な邂逅を通して自己システムの安定化を図ることもできる。
見えないものへの想像力
ここまで、発酵メタファーを用いたクレセーレの様式を、個人のレベルで考えてきた。しかし、システム論の視座を用いれば、異なる個人の集合をクレセーレが起こるひとつの社会システムとみなすことができる。個人が多様な構成要素からなる複雑システムであれば、数人から成る組織も、数万人単位の社会集団も同様である。
発酵メタファーに即して言えば、画一的な構成要素が支配的であるシステムでは、クレセーレが起こりづらい。超熟成と呼ばれる100年程度のぬか床は、適切な手入れを行えば、安定的に上質な漬物を産出し続ける。その微生物叢を調べた研究によれば、菌類の多様性が認められるほか、超熟成に固有の乳酸菌類が棲息していることもわかっている。
集団や組織の創造性を考える際、個別の構成員の属性が多様となるように志向するべきなのは当然だが、その時、個々人のなかに陰在する多様性の発露にも目を向けるべきだろう。異なる抽象レベルのそれぞれに、再帰的に発酵システムが作動していて、階層間でクレセーレの相互作用が起こることを企図できれば、その社会システムに固有の風味を発酵させることが期待できるだろう。
発酵型クレセーレの要諦は、システムの観察者の視点にとっては微視的に潜在している代謝プロセスの全てを把握しようとするのではなく、あくまで想像することである。近視眼的に「代謝せよ」と迫るのではなく、そのシステムの内側で自然発生するように環境を整えることである。人の意識と感情、つまりは人間存在の自律性を認めて、その内部で渦巻くカオスから局所的秩序がかたちづくられる音に耳を傾け、意味が産出されるように手を貸すことだ。
創造性がソフトウェアのようにインストールできるという迷信から脱して、生命の長期的な有機プロセスに着目しなければ、わたしたちの社会の創造性は早々にして枯渇するだろう。発酵においても速醸といって、人工的に酵母を培養することで高速な製造を可能にする手法がある。しかし、人間によるブラインドの官能評価では、速醸タイプの製品と、自然な発酵を経た製品では、後者がより高く評価されることもわかっている。近年では、イノベーションという御旗のもの、デザイン思考やアート思考といった用語が企業の人材育成の現場で取りざたされているが、そのような取り組みが成功事例の表面的な模倣に終始するのであれば失敗に終わるだろう。プロセスの再現可能性と、結果の複製可能性を取り違えてはならない。社会的な流行のように、大勢が価値を認める現象に飛びつくばかりでは、自らの「固有の風味」という最大のイノベーションから遠のくばかりである。今こそ、ゼロから有を作り出すというクレアーレの幻想を捨てて、自己と他者が有機的に混ざり合いながら意味が時間軸から発酵するクレセーレの認識論を身に宿す時だ。◉
ドミニク・チェン
[1] 生命の進化史の過程では、もともと単性生殖が先行して発達し、後に雌雄の両性が分岐して有性生殖が登場したと言われている。異質な遺伝子を水平移動させて、遺伝にゆらぎをもたらす存在としての雄が生まれるまでは、雌の体だけで自己複製を行うかたちが主流であった。当然ながら、この生命誌の文脈と、人間社会における男性と女性の差異の議論を単純に重ね合わせるのは拙速に過ぎるばかりか誤謬につながる危険性がある。ここでの問題は社会的なジェンダーロールの比較ではなく、社会システムが主な表象に何を用いてきたのかの検討である。
[2] ドミニク・チェン『メタ床:コミュニケーションと思考の発酵モデル』、『ゲンロン10』(株式会社ゲンロン)所収
[3] Dominique Chen, Hiraku Ogura and Young Ah Seong “NukaBot: Research and Design of a Human-Microbe Interaction Model,”The 2019 Conference on Artificial Life 2019 NO. 31, 48-49 31 48 – 49, 2019.7