初出:「ちくま」2019年1月、2月、3月号に寄稿
能との遭遇
人生は数奇な縁起に満ち溢れている。今から思えば本当にひょんなご縁で、能楽師の安田登さんの稽古にかれこれ2年半ほど参加させて頂いているが、その過程で能楽について学んだことが自分の研究活動に大きな影響を与えるとは、当初はまるで予想していなかった。 稽古では、謡本を読みながら謡い方を習いつつ、多様な背景の参加者からの疑問や連想にトリガーされる脱線話が交わることで、能楽を身体的に体感しながら、そのエッセンスと関連する事象や概念が連想的に広がっていく。個人的に、当初はただただ広範な話題の振れ幅を楽しんでいたが、次第にフォーカスが絞れてきた。そうしていつからか、上澄みのように「喚起」というテーマが浮き上がってきた。 能の稽古をはじめて1年ほど経った春の日に、夢幻能の古典『融』を薪能のセッティングで観劇する機会があった。実は能楽堂で本格的な能の舞台を観るのはこの時が初めてだった。薪能とは能舞台の周辺にかがり火を焚いて、その灯りのなかで演じられる能の演目である。蝋燭の灯の微妙な明るさで眼がなかなか暗順応できず、自ずと知覚が励起し続ける。驚いたのは、シテとワキ、囃子方、地謡それぞれが自律的に作動していて、謡の声が鼓の音に隠れることだった。まるで全体を制御しようとする統一的な意志がないのだが、舞台上の演者たちの揺動し続ける関係性によってひとつの全体性が都度、創発しているように見えた。 また、囃子方の鼓とかけ声は鳥獣の鳴き声や風の音、そして情動系のノイズ(内声的な叫び)といった非合理的な自然音のメタファーなのではないかと思った。謡が言語的な構造を司るならば、囃子方は非合理的な無意識のレイヤーを物語に被せてくる。この二つの層がフラットに自律しながら、ところどころで互いの共振が知覚できように演目がデザインされている。 そして、蝋燭の灯りのもと、揚幕から汐汲みの老人や源融の亡霊が摺足で浮遊するように登場する様も、気がついたらそこに居る、という感じで、スポットライトをあてるような現代的な演出とは全く異質な登場の仕方である。 ラテン語のモンストラチオmonstratioはもともと「見せる」という意味で、現代では「怪物」を意味するモンスターmonstrumの語源である。合理的なプロセスを経ず、ただ出現するものがモンスターであるとすれば、夢幻能の亡霊はまさにmonstrumだ。対照的に、de-monstrationとは論理によって事象を脱モンスター化する作業を意味しており、転じて「証明」を指す言葉になった。 別に合理的な理由もなく、ただ出現してしまったものとして遭遇するしかないmonstrum(亡霊、化物)という存在は根源的に「謎」である。つまり意味論的に解釈したり咀嚼したりすることのできない、無意識内を漂う「問い」の原型のようなものではないだろうか。 薄明かりの能舞台を2時間近く観ていて、思考が全く飽和せずに働き続けていた理由には、以上のような働きがあったのではないかと考えている。身体に入ってくる情報の意味が理解できないが、その分ずっと脳がアクティブにドライブし続けている状態は、誰もいない夜道を散策している時の脳の覚め方に似ている。 この時はじめて、「見立て」という概念が、観るものが自律的に意味を生成するためのプロセスを喚び起こす境界(インタフェース)を指しているのだと、しみじみと腑に落ちたのだった。
ふたつの「evoke」
「喚起」は英語でevocationという。日英翻訳サイトの英辞郎on the Web Proによれば、evokeという動詞の語源はe(外に)とvoke(呼び出す)という組成になっており、「〔感情・記憶などを〕呼び起こす、喚起する、想起[連想]させる」という意味が一義にあり、つぎに「〔物議・笑い・同情などを〕引き起こす、誘い出す」、そして最後に「〔霊魂などを〕呼び出す」という定義がつづく。 これらの定義は能楽の演目の要素にもたしかに対応している。夢幻能では旅の僧のようなワキが亡霊や鬼のシテと出会う。能舞台の橋掛かりは、あの世とこの世を架橋する空間である。囃子方の笛、鼓と掛け声、そして地謡は、演者にとっての種々の合図であると同時に、亡霊を舞台上に召喚するための時間がながれはじめることをも表している。舞台装置の全体が、この世のものならざる存在を喚び起こす(evoke)ために作動する。 シテの仕舞いは謎に満ちており、その言動はワキの発現と噛み合っていないこともある。観客は亡霊のあわい表情の能面に、そのときどきに無意識的、意識的に喚起される感情やイメージを投影しながら、劇の進行に立ち会う。このとき、鑑賞者それぞれの内部で、目の前に展開する光景から異なる過去の記憶が連想されていくという、同床異夢の状態が発生する。 問題は、evokeの二つ目の定義「引き起こす、誘い出す」にある。とても微細な差異だが、「喚び起こす」ことと「引き起こす」は別の意味をもっている。卑近な例にたとえてみれば、ベッドで寝ている人の名前を呼んで、起こすことと、文字通り腕を引っ張って引き起こす、くらいの違いがある。前者の「呼び起こし」では、対象者には「応答して、自分で起き上がる」という最低限の能動性が担保されていることに対して、後者の「引き起こし」では、対象者は受動的な存在である。 この二つの志向性が「喚起」という言葉に混在しているのは興味深い。わたしたちは純粋に自律的であったり他律的であったりすることなどなく、二つの極の中間を振り子のようにぷらぷらと漂って生きている。能の舞台を見て、無意識のイメージを遊ばせることもあれば、歌舞伎役者が見得を切るのを見て、しびれたりもする。それでもわたしは、能楽がわたしだけに固有のイメージを喚び起こすことに、あらためて大きな価値が潜在しているように感じるのだ。 もしかしたら、心理学の発達段階理論に照らし合わせれば、齢四十に差し掛かっていることに拠る、精神的なエイジングの効果も手伝っているかもしれない。しかし、別の理由もある。それは2年前に企業経営から研究教育へと活動の場を移して以来、あらためて文芸作品に親しむ時間が増えたことも関係しているだろう。経済原理に駆動されているときは、いかに顧客の感情を「引き起こすか」ということに腐心していたが、学習と研究の現場ではいかに学生や同輩たちと豊穣なイメージを「喚び起こしあえるか」という問いが核心になったのだ。
コンヴィヴィアリティの発酵
すこし前に、アメリカ心理学会の会長を努め、ポジティブ心理学という分野を一般にも広めたマーティン・セリグマン博士の来日講演に参加する機会があった。人間の幸福を構成する要素を切り分け、いきいきとした心の状態を科学的に扱おうとしてきた博士の話のなかでも、次の一節が非常に印象的だった。 「私は長年、夫婦関係のカウンセラーをつとめるなかで、発見したアドバイスがある。それは、相手の話を聞くときには、相手がいままさに語ろうとしている状況をよりよく思い出せるような質問をしなさい、ということだ。」 たとえば、夫婦でも友人でもかまわないが、話し相手が「今日はこんな良いことがあった」と切り出したとする。「へぇ、それはよかったね」と答えるのは、関係性の発展に寄与しない、とセリグマンはいう。そうではなくて、「その時に、どんな感じがした?」と聞くことで、相手は話をしながら、嬉しかったこと、楽しかったことが起きた時を、再び体験することができる。また、聞き役である自分も、相手の経験した感情を追体験できる。わたしはこの話を聞いて、なんだか感じ入ってしまった。 このような会話もまた、「喚起する」効能を持っているといえるだろう。その場、その時ではない現象―それは過去だけではなく、未来の事柄でもいい―を、互いに喚び起こしあえるように、会話を紡ぐこと。忙しい日々のなかでは、どうしても効率性が優先される事務的な連絡が多くなりがちだ。しかし、人間は指示と応答だけのコミュニケーションには耐えられない。逆に、ささいな会話のなかでも、感情をわけあうことを志向できる。そのことに、セリグマン博士のアドバイスを聞いて、気付かされたように思えた。 イヴァン・イリッチは『コンヴィヴィアリティの道具』という本のなかで、医療やインフラ、その他の近代的な工業製品が人間を所有の思考に陥れると批判した。仕事は「すること」であったのが、近代社会では「持つもの」になった。同様に、「学ぶこと」は「学歴を持つこと」、暮らすことは「家を持つこと」、こどもを育てることも「子を持つこと」になった。所有の思考は、さらなる所有へと駆り立て、結果的に人間同士のつながりも断絶されてしまう。そうではなく、親愛さ(コンヴィヴィアリティ)を深める道具をこそ造るべきだとイリッチは書いている。 相手の内なるイメージを喚起させ、自らの内なるイメージを呼応させること。自分と相手のあいだに多様な感情がただ生起し、時間をかけて関係性が発酵するのを見守ること。あらゆるものが瞬時に情報化され、すぐさま価値を提示することが求められる現代において、喚起的な関係性から立ち現れる連帯の感覚は貴重になりつつあるように思える。その分、むしろ遅効性のコミュニケーションだけがつなぎとめられる価値があることに、わたしたちの社会はゆっくりと気づいていけるのかもしれない。 こういうことを考えていると、倫理を意味するethosという言葉がもともと、「獣道」を意味していたという話を思い出す。通りやすい軌跡を見つけ、踏みならすように時間をかけて道をつくる。俯瞰して最適解を見つけるのではない。その時々にたちあがる不可視の関係を幻視しながら、共に育むための術を探していきたい。