『対話型AIの哲学 「書くこと」に未来はあるか?』マーク・クーケルバーク/デイヴィッド・J・ガンケル著(青土社)
何を生成し返せるか
文字に頼れば人は忘れっぽくなる。プラトンによるソクラテスの対話編『パイドロス』でソクラテスは書くことをそう戒めた。書かれた言葉は、問いかけても同じ答えを繰り返すだけである。本書の二人の著者は、この古い懸念に大胆な読みを重ねる。書くこととは元来、道具を要する人工的な技術であり、「書くこと」自体が一種のAIだった、と。
生成AIが揺さぶるのは西洋近代の「OS」(考え方の基盤)だと著者らは述べる。話し言葉こそ思考に直結し、書かれたものは二次的な記号にすぎない。哲学者デリダがロゴス中心主義と呼んだ図式だ。「作者」も普遍的な概念ではない。批評家のバルトによれば近代西洋では作者と作品の関係は父子になぞらえられてきた。剽窃を指す英語の語源が「子供の誘拐」であることも偶然ではない。
では意味はどこで生まれるのか。著者らはバルトとともに答える。「文書の統一性は、その起源ではなく、宛て先にある」。意味は書き手の意図ではなく、読者が解釈する場で立ち上がる。生成AIが依拠する大規模言語モデルは言葉の意味を理解していない、との批判は正しい。だが出力を無意味と切り捨てるのは拙速だ。あらゆる文章がそうであるように、意味は読む側で生まれる。AIはそれを可視化しただけなのだ。
評者は以前から「読むことは書くことである」と考えてきたので、この転回に首肯できる。生成AIの使い道もそこにある。自分の書いた文章をAIに読ませ、返る応答を読み、それを足場にまた書く。出力の出来映えではなく、そこから自分が何を生成し返せるかが問われる。このループは自己を理解し直す装置になりうる。
本書は「書くこと」の未来は読むことのうちにあるのだと結ぶ。何をどう読むかを選び、キュレーションすること。それは一人の作業ではなく、読書会のように他者と議論しながら進む共同的な営みだ。生成AIがもたらした混乱を、近代を乗り越える好機として引き受ける。挑発的でありながら、同時に希望のイメージが生成される一冊だ。田畑暁生訳。(2640円)
