『生命は変換の環である 生・死・再生のディープケミストリー』ニック・レーン著(みすず書房)
物質の流れで説く生命論
私たちの体内では、今この瞬間も細胞ひとつひとつの中で毎秒十億回の分子変化が起きている。生化学者ニック・レーンが本書の鍵概念に据える「フラックス」は、単なる流れではない。物が途中で変容しつづける回路だ。ある通りに毎秒入ってくるフォルクスワーゲンのビートルが、まばゆい光を放ちながらポルシェに、ボルボに、トラクターへと次々に姿を変えて出ていく――著者の比喩を借りれば、そんな奇妙な代謝の通りが体内に無数に走っているのだ。
本書は、遺伝情報から生命を解くという現代生物学の主流に対して、エネルギーと物質の流れから生命を捉え直す視座をぶつける。読み進めるには複雑な分子の働きを想像する忍耐が要るが、全てを理解する必要はない。嵐の合間に光が差すように著者の洞察が立ち現れる瞬間にたどり着けば、十分に報われるだろう。
私が最も衝撃を受けたのは、生命の普遍的なエネルギー通貨ATPを生み出す要のクレブス回路が、太古の細菌においては全く逆の働きになっており、二酸化炭素を有機分子へと組み立てる生合成のエンジンだったという指摘だ。生命の根幹に革命が生じたのだ。約二〇億年前、「大酸化イベント」(GOE)と呼ばれる惑星規模の変化により、酸素が大幅に増した世界に移行し、生命は同じ回路を反転させて生き延びたのだ。
がんに関する考察も考えさせられる。がん細胞はATP生成を抑え、成長そのものへとスイッチを切り替える。果てしなき成長を求める私たちの社会の似姿のようでもある。一方、最も単純な細胞でさえ「自己」の境界をもち、それが絶え間ないエネルギーの流れに支えられているという観察は、己を知るとは何かを根底から問い直させる。
「細胞は地球を再現するミニ電池なのだ」。この一節を読み、自分の体が惑星から生まれた証を今も保持しているという感慨が立ち上がった。生命の根源を物質の流れから見つめ直す本書は、自分という存在の境界を揺さぶる。私たちの生命は想像しつくせないほど大きな流れに動かされているのだ。斉藤隆央訳。(3960円)